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【QOL】安楽死・延命治療・自決【クオリティオブライフ】

「安楽死宣言」の米女性死亡 「尊厳を持って死ぬことを選ぶ」(14/11/03)

オレゴン州に住む29歳のアメリカ人女性が脳腫瘍で余命半年と宣告され、安楽死を選択することを宣言。11月1日、予告どおり安楽死を実行したというニュース。記事の最後の方に

“ 支援団体が10月6日、メイナードさんが「11月1日に死にます」などと話すインタビューをユーチューブに載せたところ、是非を巡り、米国内や欧州などで議論を呼んだ。「最後まで治療を受けるべきだ」「それほどひどい病気にみえないのに、自殺するのか」などと批判的な声もあった。”
(管理人の独白: 「最後まで治療を受けるべきだ」・・・医師の質によっては検討する。)

不治の病で余命わずか、残された道は、耐えがたい苦しみを従う[『延命治療』だけであり、回復の見込みはない。
人間らしい状態のままで、苦痛が起こる前に安らかに死に向き合い、自ら幕を閉じたい、と思うのは自然なことだと思う。


  “米CBSは「私が担当医だったら、色々な選択肢があることを伝え、出来るだけ延命できる方法を説明する」と語るシカゴ大の医療倫理専門家の話を紹介。医 療専門誌の調査の結果として、67%の医療関係者が、医師による自殺幇助(ほうじょ)に反対していることも伝えた。英国でもBBCなどが宗教団体の反応などを報じた。”


 「私が担当医だったら、色々な選択肢があることを伝え、出来るだけ延命できる方法を説明する」と専門家が発言したように、彼らはあくまで『延命』にこだわり、(屠殺法の)メニュー豊富な肉屋さんの様でもある、死のイメージがつくようなことには関われない、ということなのだろうか。
QOLについてなど全く考慮されていないという印象。




もし一般の医師が安楽死を行うことになったとしたら・・・
患者側から見た医師のイメージが『自分を殺すこともできる医師』に変化した結果、大衆が医師に対して恐怖心を持つようになるのではないだろうか。不完全な人間の手に神の業が託されてしまった(人間の生死を操ることのできる存在)として。
“病気になるとあの恐ろしい(笑)イシャに突き出されるので全国民が健康オタクになりました。”
・・・という楽天的展開もありえるが。(アメリカ人の健康オタク傾向は国民健康保険制度がないので病気になるわけにはいかないというのが要因らしい。涙)


 安楽死はつまりQOLの問題だ。
例えば、脳の病気が進行して周囲の人間が誰かもわからないような状況に陥ったり、意識や感覚が遠のいて垂れ流し状態。その上治る見込みはない、という場合、延命することに意義がないことになる。意義があるとすれば、決定権が医師に移り、医師は患者を『死ぬまで延命し続ける』、つまり、結局は『死なせる手助け』であるというしかない。それを『より長く生かす手助け』と言い換えているが、結局その先にあるものは『死』である。しかも自分の状態や姿に精神が耐え切れず自己崩壊してしまうような苦痛や体の変形をしたがう死である。
 苦痛を従う延命治療を行うのみで、『"本人が納得できる状態の"本人の維持や復元』でなければ意味がない、という訴えを無視しているが、自分の死に方さえ選択することを許されない、自己決定権を剥奪されたままで抵抗もしない、情けない存在が現代人というものなのかと思うと悲しくなる。

逆に、死期を目前に延命治療と安楽死という二つの選択肢がすでにあったとして、何が不都合なのか。

日本には死刑制度がある。
死刑では、死刑囚である個人の生死決定権が取り上げられて他人に移る
他人とは誰かというと、仮定的には全国民である。全日本国民の総意で死刑囚の生死決定権を全ての人が一斉に無視し、執行に異議を唱えずその続行を許す。これが死刑制度だ。

安楽死はその逆で、決定権は移ることなく、当人による決定に従って医師が安楽死を請け負う。

個人の尊厳を保持したまま=人間として死ぬ尊厳死と、非人間として決定権を取り上げられて死ぬ刑死は、同じ死でも正反対の状態にある。 

二つの同じ『死』の内容はこんなにも違う。ここに質の違いがある。







尊厳死・安楽死は自殺幇助であるとしているが、安楽死が自殺幇助と違う点は、安楽死を望む当人の死期が近く、安楽死の選択による、死期の迫った人間の身の回りの整理の一環とも言えると個人的には考えている。

死刑による刑死の際の決定権の剥奪を鑑みるに、個人の決定権が無視されているということが、延命治療における個人の決定権と重なる。

命は尊いといっても、例えば頭部が欠損した体で生きることは、頭部のある体で生きる事とイコールでないことは確かだとわかる。

死に際に激しい痛みに苦しめられれば、気持ちを整理して人生に別れを告げるどころではないだろう。



比較するために死刑を持ち出したが、日本習俗である切腹や自決の理由のひとつに「敵に捕まってさらし者にされる前に自決」があり、ここには尊厳死の理由との共通点が見られる。「切り貼りされて情けない姿で死ぬ前に安楽死を選択」。


自分で自分の面倒を見られなくなった場合の選択肢としてあってもよいかと思う。(現代の口減らし/ 姥捨て山) 

合法安楽死の存在自体が、人間の思考回路に影響を及ぼし、QOLの向上に向かうという事もありえる。


自殺幇助としての安楽死が認められた場合、どうなるだろうか。
兵士となって命を落とす場合よりも、社会的には役に立たないといえるが、もし、『殺すか死ぬか』という選択肢を突きつけた場合、どのくらいの割合で分かれるだろうか?

自殺希望者でも転換する人が増えそうだ、というのが私の読みだ。







































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